ヒトの死にあたり考える事
第一、我が家の家業もありますが、こうやって司会業に携わって余計にヒトの死という場面に出くわします。今年になってからも檀家さんで本当に惜しい・・いい男性が若干47歳という若さで・・その前には知り合いの男性の奥さんにいたっては35歳という若さで・・逝ってしまわれて、他人事ではないような無常観に浸る日が続いています。
近しいヒトの死って言うのは7年も前になりますが実父を亡くしましたが、うーん・・なんていうのか親の死っていうのは寂しい・悲しいというのは当然あるでしょうが、なんとなく悲しいながらにも必定的条件っていうのか、時を得れば自然と悲しみは生きる強さも与えてくれる。儒教の世界で言えば先に逝く子は親不孝で墓にも入れてもらえんとかいうけど・・なれど縦しんば子供とか連れ合い・・悪いけど経験ない分エラそうなことは言えんけど、よく言う「時が解決してくれる」のか?否層ばかりもいっておれんのか?これは経験しなくとももしももしもわが子が我がダンナ(・・ん?(;一_一))にしてみると・・やっぱ少しは違うのか?
その話で先述の男性の葬式に、これは仕事でなく出たんですけど、喪主の息子さんの挨拶がとってもよかった!「僕は父の生き方を尊敬します」(T_T)親であれば最高のはなむけの言葉だよな(泣)まぁ本人さんの性格もあったのですが、発病後実に残りの人生を家族中心に謳歌して1分1秒をも大事に楽しんでおいでの様子でしたが、本人曰く「俺はこの病気になってからが一番幸せを感じた」って言われたらしい(ToT) 果たして自分自身そんなことがいえるかだけど、その息子さんもその挨拶でいわく「父と同様僕自身もそう思った分、そういう思いをさせてくれた癌という病気に感謝してます」・・(T_T) それって作り言葉でも言えないよねぇ!すごい!
仕事柄いろんな立場のいろんな年齢、いろんなシチュエーションでの、死という旅立ちに出くわします。総じていえることはいくつにナっても親は親で悲しみに差はなし。子供が先逝く親の姿は若けりゃ余計にみていてもつらいものですが、老いては猶、この高齢化社会において何をも苦労して生きながらえて挙句に我が老齢の身を削る分でも・・という悲壮なお顔を拝見してると身を削られるような無常観を感じる場面も幾度あります。ましてやここ数日、いじめだ未履修科目の摘発だということで追い詰められ死に至るケースが果敢に報道されてる・・子を亡くす親、一家の主を亡くす家庭・・死を以って解決するもんだいなどありゃしない・・残るのはただただ悲壮感と無常観のみ
人間の生き死にとは本当にこれこそ予測もつきませんし、順番もあるわけなし。ときに「なんであいつが生き永らえて・・」ってなあってはならん非情な思いがわきあがることも人生の中では誰でも何度かはあるでしょうね。(いやそれでこそ人間と思うわ)だからこそいっときいっときを大事に感謝して生きにゃならんけど・・(^^ゞんまぁそんなことをたまにいろいろ思い込ませてくれる、不思議なお仕事だなぁ・・と葬式は帰りの車ではいっつも思う私でもありました。
んまぁモニターでみみっちぃ生活をしてると思えば、なんだか似非坊主みたく高尚っぽい見え透いた空論までほざいてるわ(^^ゞってな軽いタッチのお寺の嫁であります。んまぁ何はともあれ、漫然といっときいっときを送るのではなく、やっぱ「前を向いてゆっくりじっくり歩いて」行くことこそ、肝要な生きる術ってやつですな。
焦らず焦らず♪
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自分らしい逝き方 著者:二村 祐輔 |
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